「伝統」だと思って「悪しき慣習」を重んじてはいけないよなー
息子の学校の終業式が、ついに「体育館に全校生徒が集まる」方式に戻りました。
入学以来、コロナ禍での密を避けるために、各教室でリモート終業式が行われていたんですけどね。
コロナ騒ぎも落ち着いたということで、また全校生徒を体育館にすし詰めにすることにしたそうです。
でまぁ、息子は文句タラタラ。
「なんでお山座り(体育座り)で校長先生の長い話を聞かなきゃいけないんだ・・・」とw
ほんとほんと。
そんなの、30年以上前に父ちゃんたちもそう思ってたよ!って。
・・・あれ?
ちょっと待って。
そういえば僕より上の世代の人もそんなことを言ってた気がするんですよ。
となると、今の校長先生たちだって子供の頃には「なんでこんなことをしなきゃいけないんだ・・・!」って思ってた世代なんじゃないんですかね・・・?
自分が嫌だなーって思ってたことを、オッサンになった今、児童たちに強いる理由って・・・なんなんだ??
それが「慣習」だから、である。
その理由を校長先生に聞いたわけではないのであくまで憶測になりますが・・・おそらくは「そういうものだから」っていう理由で続けてるんじゃないでしょうか。
だってね、コロナの時にはできたわけですよ。
エアコンの効いた教室で、自分の席に座ったまま、モニターに映し出された校長先生のありがたいお話を聞く・・・というのが。
とても効率的だと思うんですよね。体育館への移動もないですし。
できてたことなんだけど、それをまた元の状態に戻すからには何かしらの理由があるわけで。
僕はそれが「慣習だから」ってことなのかなーと思ったのです。
※もしかしたら「集団行動のなんたるか」を学ばせるために必要ってことなのかもだけど。
伝統とは似て非なるもの?
でまぁ、こういう時って「伝統的に受け継がれているから」っていう考え方もあると思ってまして。
要は先人たちがみんなやってきたことだから、それが正しいことである、みたいな。
文化的な側面・・・たとえば歌舞伎の見栄の切り方だとか、そういうのは伝統として受け継いでいくものだと思うんです。
でも、炎天下で子供たちが熱中症でバタバタ倒れるような集会を「伝統だから」っていうのはやっぱちょっと違うじゃないですか。
これはむしろ「悪しき慣習」であって、賢い人たちが改善していかなければならないことだよなーと。
ただ、慣習を変えるのって、なんか「気持ち悪い」んですよね、、、
もし今後「パンツなんて履かないで生活するほうが体にいいから!」とか言われても、やっぱノーパンで過ごすのは気持ち悪そうですし。。。
そういう大人たちの「なんかこのルールだと気持ち悪いんだよなー」っていう振る舞いに、これからも子供たちは振り回されていくんですかねー。
おわりに
という関連で調べていたら「『日本の伝統』という幻想」という本があることを知りました。
これの第二部、「伝統マウンティング」によれば、伝統という肩書があると背後に「それを重んじて来た先人たち」が味方としてついてくれる図式があるそうで。
なるほど・・・たしかに「伝統」という名の慣習に立ち向かうには、そうして過ごして来た人たち全員(故人含む)を敵に回して戦わなくてはならないわけかー。
これはなんか昨今の「SNSのフォロワー戦争」に似てるかもしれませんね。
やっぱり「何が効率的で正しいことなのか」というよりも「いかに多くの人が支持しているのか」という多数決がこの世を左右しているってことなんだなー!おもろ。