LGBTを感動コンテンツの「道具」に使ったら、それはもうなんか違うだろ!!!
あぁーもう、キモイキモイキモイ。。。
最近なんかLGBT系のコンテンツがめちゃくちゃ増えてません・・・?
って、先に保険かけておきますけど・・・LGBT自体をキモイって言ってるわけじゃないですからね。
つい先日みた某SNSでのコンテンツがね・・・感動させるためにあえてLGBTを「ドヤッ」って感じに使ってて。
いやなんか、そうなっちゃうともう完全に腫れ物扱いっていうかさぁ・・・もう違うじゃん!
どう言って良いかわからんけどw
「LGBT問題を訴えている人たちが目指したい社会って、そっちなん??」みたいなのが気になってしまったのです。僕は。
そりゃワイも差別してましたわ
誤解を恐れずに言いますけど、僕も子供の頃から「普通に」男性として女性に惹かれて生きてきました。
ここでいう普通っていうのは、要は生物の本能に従って、というか。
人間は雌雄同体ではございませんのでね、、、自然の摂理に従うならば男性は女性に恋をするものというか・・・そういう生き方をしてきました。
もちろん、そうでない人を「自然でない」なんていうつもりはなくて。
屁理屈かもしれないけれど、生物が生きようとする姿はたとえそれがどんなだったとしても(サイコパスだったとしても)自然であることには違いないんですけども。
世の中の風潮としてLGBTを蔑むというか・・・そういう流れに乗っていたことは否めません。
ただし、今は脳をアップデートしましたのでね。
「何を以って普通とするのか、というのは人それぞれ違う」というところに対しての理解はあるつもりです。(というか、好きにやったらいいと思ってる)
特別扱いされることが正解なのか?
で、思うんですけども。
僕はLGBT側ではないので、やっぱり完全にはその悩みに共感できないわけですよ。
“こっち側”(あえてそういう言い方させてもらうけど)から想像する限りだと、「LGBTであるということで一線を引かれる」ことが嫌なんじゃないの?って思ってたんですが、どうなんでしょう。
要は、ゲイである、バイである・・・ということで「うわ、、、」ってなってほしくないっていうか。
もっと「ふーん。じゃ、遊ぼうぜー!」っていう社会になってほしいんちゃうか?と。
そう考えたら「LGBTの権利を守ろう!」みたいなのが全面に出過ぎて、腫れ物を扱うように特別視されることはやっぱり苦痛なんじゃなかろうか・・・?
無理矢理自分ごとで考えるなら、、、
もうちょっと寄り添えるように自分のケースで例えると・・・「日本人」。
アメリカではまだまだ日本人って差別されてんすよ。
だから「日本人を差別するのはやめよう!」っていうキャンペーンがあったとしたら、ね?それ自体はありがたいよね?
でも、じゃあもし・・・
主人公の一人称視点で描かれた作品。
アメリカ上流階級のパーティに招かれ、ブロンドの女性と結婚。
幸せな家庭を築いたシーンの最後に写った家族の写真・・・主人公は「日本人」だった
なんて作品が「感動エピソード」みたいに紹介されてたらどうよ???っていう。
僕だったら「糞がッ!!!!!!!!」って叫ぶわw
「お前ら基準の美しいエピソードに勝手に”侮蔑対象の日本人”を選びやがって!!!!」って思うわ。
今回見た某SNSの作品、こういう感じのソレだったのよね。
「なんと主人公はトランスジェンダーでした~」みたいな。
だからなんかすごく「キモイ」と感じてしまったのでした、、、
おわりに
まぁ、、、上でも書いたけど、僕はLGBTの人ではないから本当のその人たちの悩みは全然わかんないですけどね。
もしかしたらアメリカ現地に住む日本人からしたら、日本人が特別扱いされる作品で感動できるのかもしれんし。
僕だったらイヤだろうなー、キモイなーってだけで。。。
とにかく最近はそういうLGBTの押し売りというか、LGBTをうまいこと戦略として使う例が増えてて反吐が出るであります。おしまい。
追記
あー、でもどうなんだろう。
やっぱり特別扱いしてほしいのかなぁ?
それとも「大変だったね」って寄り添うのが正解なのかなぁ・・・?
もう、そういう考え方をしている時点で「上から物を言いやがって」って思われちゃうのかしら、、、むずい!!