「自分だってやってるよね?」と「自分だってやってたよね?」の違い
僕は最近非常に反省していることがあります。
それは・・・「アセスルファムKに異常な嫌悪を示していたこと」です!!
人工甘味料のアセスルファムK・・・苦手なんすよ。
なんかすごく「砂糖と同じ甘味ですけど?」みたいな顔してるのに、全然味違うじゃん、ってあたりが、、、
で、そこらへんはもう「好き嫌い」の話じゃないですか。
ピーマンが苦くて食べられないという子もいれば、うちの子なんかはピーマンが大好きだったりするわけで。
だからどちらが正しいとか間違っているとかの話ではないんですよね。
なので「僕はアセスルファムKを使った甘味が嫌い」ではあるけれど、それが好きな人のことを否定してはいけないと思っているのです。
・・・が!!
たぶん、過去には「あんなの好きなヤツの気が知れねえ!」みたいなことを発言してしまっていたこともあるんじゃないかと。
んで、それを反省しているという話をしたうえで「そうやって『好き嫌い』で人を否定してはダメだよね」ってことを息子に説いていたところ・・・
「自分だってやってたくせに、それを他の人にダメって言っちゃいけないんだ~!」
と注意されたのですw
・・・いやいや。
僕はこの問題・・・「やってるくせに」と「やってたくせに」では全然異なると思うのですよ。
やってるくせに、なら現在進行形
息子は学校で友達を注意した時に、先生から「自分だってやってるんだから注意する資格がない」というようなことを言われたのだそう。
なので、それを家でも父親に発動させてみたわけですねw
・・・で、先生が言うことは正しいんですよ。たぶん。
たとえば現在進行形でイジメをしている人が「イジメなんてダメだぞ!」って言うのは変じゃないですか。
他人を注意するのなら、自分がそうでない状態にないと説得力がないわけです。
一方、過去に自分が犯した過ちというのは・・・現在進行形ではないですよね。
ということは、その過去時点から現在までの間に、大いに反省する時間があったとも言えるのであります。
失敗からは学習できるのだ
僕は「人間は失敗する生き物」だと思っています。
すごく極端な例を言うと、赤ちゃんの頃に立ち上がることに失敗して転んで・・・というのを繰り返し、いつしか立って歩けるようになる・・・というような感じ。
なので、失敗をしたことがない人なんていうのは存在してないはずなんですよね。
おしっこを漏らしたら恥ずかしいし、気持ち悪いし・・・という失敗を経て、「せや!ギリギリになる前にトイレいっとこ!」みたいな。
そういう学習ができる生き物なんですよ。
だからこそ、自分が過去にやらかしてしまったことは反省することができるし、その反省を糧に教訓とすることもできる、と。
つまり、過去に失敗したことがあっても、現在のその人が他者を注意することは可能なんですよ。
それどころか、むしろ説得力もあるのではないかと。
許されるか否かはまた別
ただ・・・反省したからといって、その失敗を許してもらえるかどうか?というのはまた別の話だと思ってて。
僕はそういうのって「業」だと考えるんですよね。
自分の発言や行動で誰かを傷つけてしまった場合・・・自分自身で反省をすることはできる。
だけれど、その失敗自体はずっと胸に楔のように突き刺さっており、自分が死ぬまで消えることがなく苦しみ続けさせるものになる、という感じ。
だからね、裁判とかで「反省してまーす」みたいなのは全然、情状酌量する必要もないですし、刑期を終えたからって罪が消えるわけでもないとは思ってます。
おわりに
ちょっと前にほら・・・連続強盗の指示役とお笑い芸人のカネチさんが過去に繋がりがあったとかで、やたらとカネチさんが叩かれてたりしたでしょう??
もちろん当時被害に遭われた方にしてみたらカネチさんの顔も見たくないでしょうけども・・・けど、それと今回の事件とはまた別なんじゃね?って思うんすよ。
「自分も(現在進行形で)やってるよね?」っていう批難はわかるけど、「自分もやってたよね?」だと「おう・・・だから良くないことだって知ってるんだぜ」ってカウンターもあるのかなぁって。
逆にもし「自分もやってたよね?」がNGなのであれば聖人君子しか生きてはいけない社会になるというか・・・ま、そんな感じっす。