なぜ「人が死んだら仕事を休んで駆け付けられる」のだろう?
この一か月ぐらい、妻が義母(妻にとっての母)の怪我に伴う病院やら介護やらのアレコレで忙しくしていました。
実家が車で1時間ぐらいのところにあるので義母にとっても頼り易かったんでしょうね。
そのせいで「パートの無い日は実家ないし病院に行く」というような感じで疲弊してたんですよ。
妻には東京で働く兄もいるので、僕としてはそっちにも頼って欲しいなって思うんですけども。
どうも「でもお兄ちゃんは仕事があるから」みたいな感じで妻が駆り出されていたわけです。
・・・いや、こっちも仕事してんすけどね?
パートない日は僕の仕事を手伝ってもらってるし、そうでなくとも家事育児etc…
なーんかちょっと軽視されてる感じで腹が立っているのですが。
それはさておき。
「仕事があるから親の面倒を見にいけない」っていうのを改めて考えてみたんですけども、これすごい変じゃないですか??
人の死は免罪符なのか?
どれだけ仕事が忙しいかにもよるのかもしれませんけど、たぶん家族が死ぬなんてことがあれば「仕事を休んで駆け付ける」わけですよ。基本的には誰しも。
本来、死んでしまった人なんてもうお話することもできないんだし、(腐敗は進んでしまうけれど)そんなに急いで駆け付ける必要もないじゃないですか。
でもなぜか人が死んだっていうと「仕事休んでいいから」みたいな風潮あるでしょ。忌引きとかいう休暇制度もあるし。
もし「仕事があるから親の面倒を見に行けない」のであれば、「仕事があるから死に顔を拝みに行けない」ってのもあって然るべきと思うんですが・・・どうでしょう?
やっぱ人の死って免罪符となりうるんですかね??
僕だったら「えー、だったら生きてるうちに『休んでいいから親の顔見てこい』って言ってよ~!!」って思っちゃうかなぁw
つまり、仕事なんてその程度のことなんですよね。
自分が休んだからってただちに会社の業績が悪くなるとかでもないだろうし、なんだったら誰かが穴埋めしてくれるんだろうし。
いろいろの手続きのため?
そんな話を妻にしたところ「人が死んだらいろいろ手続きがあるから、そのために休みを貰うんじゃない?」って。
なるほどなぁ・・・。
たしかに身内が死んだ場合って単純に「悲しい」「寂しい」ばっかりじゃなくて。
届け出だしたり、葬儀屋と相談したり、遺品どうするかとか、銀行口座がーーーとか、いろいろありますもんね。
つまりまぁ、「人間が生きた後処理」のためだったら仕事を休んでもいいってわけかー。
たしかにそれを言われたら納得ではあるんだけど・・・やっぱなんか、ちょっとモヤモヤしますわなw
おわりに
とはいえ!!
なんだかんだ家族にしろ友達にしろ、生きているうちは「生きているのが普通」と思っているので、やっぱり会いに行くことがそんなに重要なことに昇華されないんですよね。
自分の今の生活を守るのに精いっぱいというか。ワイもなんだかんだ実家に帰るのが億劫で後回しにしたりしますし、、、(車で20分の距離なのに)
ま、それもまた人生である。
ちなみに、友人と飲んだ際のテーマで「訃報を聞かないままでいればその人は生きている」というのがありまして。
いつのまにか連絡を取らなくなってしまった友人・知人って、「あの人元気かな」って思っているだけならばずっと(心の中では)元気で生きているんですよね。
それはそれで美しいと思うんですよ。
だって僕、もう誰にも自分より先に死んでほしくないものw
だけど家族などの近しい人になってしまうとそういうわけにもいかないのでね・・・いつかは必ず死ぬと肝に銘じて日々を過ごしていかないといけないわけですな。
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