華麗なるギャツビー(2013)を観た!
ずっと気になっていた映画「華麗なるギャツビー」を観ました。
もともとはホットウィールのキャスト「GREAT GATSPEED」から知った作品です。
元々は1920年代のF・スコット・フィッツジェラルド氏の小説で、これまでに少なくとも5回は映画化されています。
(華麗なるフィッツジェラルドではない!)
今回は観たのはそのうち、2013年に公開されたレオナルド・ディカプリオ版の華麗なるギャツビー。
これもまたとても悲しい物語でした。
感想をつらつら書かせていただきたく!
ギャツビーは華麗だったか!?
この映画の主人公、ニック・キャラウェイ(演:トビー・マグワイヤ氏)は「信頼できない語り手」と言われています。
なぜ信頼できない語り手なのかというと、、、要はニックの一人称視点で物語が進み、当のニックが精神的に信用に足る状態ではなかったため。
そのニックが、レオナルド・ディカプリオ氏演じるジェイ・ギャツビーという人物について記した物語に「The Great Gatsby」というタイトルを付けており、(それがそのまま映画のタイトルなので)僕らが観ている物語、つまり華麗なるギャツビー氏は実在したのか?それともそもそもがニックの妄想なのか・・・?など作者先生による仕掛けが施されている作品だったりするのです。
※たとえばトムの愛人が飛び出してきて、それをデイジーが撥ねた・・・というシーンなんかは完全にニックの妄想に過ぎないんですよね、、、
ま、それはさておき、物語を素直に受け取るならば、ギャツビー氏は本当に華麗なる人物でした。
ギャツビーの華麗さは生き様だ!
何を以て華麗と呼ぶかは難しいところではありますが、それは決してギャツビー氏の生活の華やかさ(毎夜セレブたちを集めてパーティをしている、高級外車に乗っているなど)ではなく、ましてやレオ様が演じているということでの麗しさでもないと思っています。
僕が思うに、ギャツビー氏の華麗さはその「生き様」にあったのかなと!
汚い商売に手を染めてでも、想い人のためにセレブに成り上がるほどの一途さなんかがそうですよね。
それでいながら、ようやく再会を果たせることになったのにも関わらず大雨の中に逃げ出してしまうシーンとかも・・・人間臭さの中に、ある種の美しさのようなものを感じました。
一生を終えるその瞬間までしっかりと華麗な生き方だったんじゃないかな。
The Great GATSBYが最初に映画化された際、ついた邦題は「或る男の一生」だったそうです。
二度目の映画化の際についた邦題は「暗黒街の巨頭」。
どっちもまぁ間違いではないんだけれど、やっぱり「華麗なる~」っていうのがすごくギャツビー氏には当てはまる感じだったのではないでしょうか。
一方、セレブたちのウンコ具合よ、、、
一方・・・ギャツビーを振り回す形になってしまった周りのセレブたちの美しくなさよ・・・。
もちろん物語としてそういう風に描かれてしまっているので仕方ないですが、なんていうかこちらもまた人間臭さがある醜さだったと思います。
でもまぁ、ギャツビー氏のように純粋に”華麗に”生きられる人の方が珍しいのであって。
僕らもどこかしら「こういう生き方は美しくない」と思っていながらも、それを仕方なく受け入れて生きているんだよなぁ・・・なんて考えさせられました。
ゆえに、美しく生きたギャツビー氏の最期がああいう形になってしまったのが、なんとも居た堪れなかったです。
もしギャツビー氏が上流階級の生まれで、デイジーとトムが出会っていなかったなら・・・?
そんなifストーリーも観てみたいような・・・(デイジーが結構アレだから、やっぱりそれはそれで美しくなかったかもしれないけれど)
おわりに
というわけで、グレートギャツビー・・・面白かったです。
時間が許すなら他のバージョンの映画や、原作の方も観てみたい感じ。
僕が生まれる50年以上前(今から100年近くも前)の作品なのに・・・ようやく今観れたことに感謝。
それにしてもレオ様・・・いいですねえ。
最近金曜ロードショーでタイタニックの二週連続放送を観てから、ちょっとレオ様にハマりぎみであります。
インセプションやらシャッターアイランドやら立て続けに観てしまったなぁ・・・。
同じカテゴリーの記事
- PREV
- 最後の晩餐に何が食べたいか?
- NEXT
- 病院の会計はなぜ遅いのか???