子供の頃に”叱られなかった”記憶など、何の宝にもならない!!
うちの息子くん、注意力が足りないのかわかりませんが・・・よく学校に忘れ物をしてきます。
だいたい夜中とか翌朝に気づいて「先生に叱られる~~~!」と喚き散らすのですが、、、
叱られてこいやw
いやもうね、先生にがっつり叱られてきたらいいんですよ。
そう思うのにはちゃんと理由がありまして・・・今日はそこんとこをちょっとお話したいなと!
叱られた記憶は宝物じゃろがい!
何を隠そうワタクシ・・・子供の頃にはそれはそれは忘れ物をしてきたものです。
親に渡さなければいけないプリントを忘れては親に叱られ、その次の日に学校の先生に叱られ・・・。
そういうのを繰り返すうちに「叱られないように、帰る前に明日のチェックしておこう」って成長できるようになったわけですよね。
叱られるのってストレスなんですけども、やっぱりそういった多少のストレスが生活を改善するキッカケになることってあるだろうなーと。
息子くんは「叱られないために、今後は学校にあるものを毎日全部持ち帰る!!」とか言ってたんですけど・・・まぁ、それも一種の解決方法だとは思うんですが、あんまり成長には繋がってないような気もw
どちらかというと、今後何回叱られても構わないから、成長してこんかーい!っていうのが僕の思うところだったりします。
(叱られないようになる、のではなく・・・できるようになる!がベターかなと)
・・・で、それだけじゃないんですよ。
子供のうちの叱られた記憶っていうのは、それだけでもう儲け物というか。
のちの人生における”宝”になると僕は思うのであります。
紆余曲折のない人生など楽しいだろうか!?
おじさんになると懐古主義になるというか・・・よくみんな「昔の話」を嬉しそうに話すじゃないですか。
あの頃はこんなに不便だった、だとか。
先日も「8bit時代のゲームはグラフィックに頼れなかったので内容をすごく工夫していた」みたいなことを息子に熱弁する自分がいました。
でね、そういう流れで「昔はこういうことをしてよく怒られたなー」みたいなのも(ある種美談みたいな形で)語りがちなんですよ。
叱られた経験っていうのはその当時だとすごく嫌なものだったんだけど、不思議と後年には「楽しかった思い出」みたいになってるんですよね、、、
逆にいうと、過不足のない生活をしてきた場合・・・、つまり特に叱られることのない、失敗のない人生を送ってきた人というのは、「叱られた話」への共感がないことになるじゃないですか。
「中学の時、通っちゃいけない道を通って先生にめちゃくちゃ叱られてさー」
「あったあったw 今だったら絶対やらないのに、当時はなぜかやっちゃってたんだよなー」
みたいな、こういう会話が楽しめないことになりそうで・・・それってなんかもったないよなーと。
(大人になってからそういう失敗をするのとはワケが違いますしね、、、)
ま、そういうことなので、僕は息子にはどんどん失敗して欲しいし、どんどん周りの大人に叱られて成長してほしいのです。
今度の遠足でフエラムネをオヤツに買ったそうなのですが、なんだったら行きのバスでフライングおやつをかまして、笛鳴らして没収されるぐらいの勢いで行ってほしいなぁ・・・。
おわりに
・・・と言っても、取り返しのつかないような失敗はしないでほしい、っていうところがね。。。また判断付けづらいところなんでしょうけども。
たとえば被害者が存在するような事ね。こういうのはよく考えて、やらないようにすべき。
でも宿題を忘れた?プリントを忘れた?遅刻した??
それぐらいならホント、将来のお宝だと思って喜んで失敗していって欲しいかなー!